CTY「まほろば ~歴史の扉~」三岐鉄道編 放送中

2016年6月のCTY(地上デジタル12ch)の「まほろば ~歴史の扉~」は、三岐鉄道の話が放送されています。

■放送日:6月16~30日 (15分番組)
  月~日 10:00~
  月・水・金・日 14:00~
  火・木・土 17:00~
  月・水・金・日 19:00~
  火・木 22:00~

地域に密着した交通機関 三岐鉄道の歩み』と題して、三岐鉄道の創設当時や戦時の交通統制など、様々な障害をいかに乗り越えてきたのかを探ります。
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私も少し解説に登場しています。
いつも、テレビでの解説は苦戦ですが、とりあえずなんとかなっているかと...

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なんとも15分番組なので、細かい解説は納まりきれずということで、少し補足です!

●「三岐」の由来
三岐」は三重県の「」と岐阜県の「」の意味ですが、岐阜県内に路線が無いのに、なぜ「三岐」?と問われることがしばしばあります。 と言うことで、名前の由来と岐阜県に路線が到達していない理由を解説してみます。

社紋も、三岐鉄道の「」と「=ギ」をもじり「三」個の「キ」を車輪状に図案化しています。「キ」の縦棒が末広がりになているのは、会社の発展をのぞみ、また稲妻状になっているのは鉄道計画時に動力源を電気にすることを検討していたためです。
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鈴鹿山脈の北端にある藤原岳が、セメントの原料である石灰石で出来ていることに、小野田セメント(現太平洋セメント)と、浅野セメント現太平洋セメント)が目を付けました。 小野田セメントは、藤原町の東藤原に工場を建設し、そこで生産されるセメントを富田や四日市に運ぶため「員弁鉄道」を計画しました。一方、浅野セメントは、藤原町の西藤原から石灰石を採掘し、それを新しく四日市に建設する工場や関ヶ原(岐阜県)に運ぶため、「藤原鉄道」を計画しました。

このため、小野田セメント側の員弁鉄道と、浅野セメント側の藤原鉄道が免許取得のため競合することになり、窓口の三重県知事を悩ませました。当時の知事はこの問題解決のため、四日市の実力者を立会人として調停に乗り出し、1927(昭和2)年6月、両社の鉄道敷設を一本化することで話をまとめました。 結果、二社の計画を一本化の上で免許申請を行い、1928(昭和3)年6月、「藤原鉄道」の免許が下りました。 「藤原鉄道」の名称は、会社設立の際に、三重県四日市市と岐阜県関ケ原町を結ぶ計画から「三岐鉄道」と改称することとなりました。

しかし、西藤原から関ヶ原へ石灰石を運ぶ計画だった浅野セメントは四日市の工場用地取得に失敗し、藤原岳からの撤退を余儀なくされ、西藤原~関ヶ原四日市~保々間は開業することなく1937(昭和12)年11月までに各線敷設免許は失効し、岐阜県への路線延伸はまぼろしに終わりました。

「開通記念繪端書」や「三岐鐵道沿線案内」などに四日市方面や関ヶ原方面の計画路線も描かれています。

●開通記念繪端書「三岐鉄道沿線略圖」
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●三岐鐵道沿線案内
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●四日市港全圖
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四日市方面路線の土工工事は、保々~県間3.3kmが1930(昭和5)年10月25日に完成していました。(保々は現在の保々駅では無く、保々村の工事起点) この区間は、残念ながら線路敷設されることはありませんでしたが、ほ場整備が行われる昭和40年代までは、築堤も残っていました。

では、国土地理院の地形図と空中写真で、四日市方面の路線跡を確認してみます!

●国土地理院 1/2.5万地形図「菰野」(1947.08.30発行)
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●国土地理院 空中写真「USA-R1253」(1948.4.6米軍撮影)
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●国土地理院 空中写真「MKK6312X-C1」(1963.11.4国土地理院撮影)
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●国土地理院 空中写真「MKK716X-C5」(1971.4.25国土地理院撮影)
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●国土地理院 空中写真「CCB7528-C43」(1975.11.1国土地理院撮影)
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残念ながら、小牧町築堤カーブはほ場整備で無くなりましたが、現在も一部が道路として残っているので、こちらを辿ってみました!

三岐線保々車両区の洗車場がある部分が、まさに四日市方面の路線跡となります。
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山城10号踏切あたりで、南側へ分岐します。
画像中央の草が生えた土手が線路跡、左カーブが三岐線です。
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■画像中央の草が生えた土手が路線跡、右カーブが三岐線です。
そして、ほ場整備によりここから先の築堤は無くなり、四日市市小牧水源地が出来ています。
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■画像中央、まきの木台へ上がる坂道が、四日市方面の路線跡です。
この坂道からすると、築堤はかなり高くなっていたと思われます。
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■まきの木台をまっすぐ緩やかな上り坂道で進んでいます。
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■旧八風道と直行する交差点に出ます。
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■旧八風道を超えて、もう少し進みます。
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■上海老町の国道365号旧道で路線跡は終点です。
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■ここで振り返ってみてみると、左側に「水道用地」の杭が立っています。
どうやら、路線跡は小牧水源地の配水管が通っているようですね。
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■路線跡を旧八風道交差点から見下ろすと、正面に新名神高速道路の朝明川アーチ橋が見えます!
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それにしても、この四日市方面の路線が実現していたら、もっと三岐鉄道の輸送形態も変わっていたかもしれないですね!

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この記事へのコメント

INITIAL‐S
2016年07月02日 20:45
南野さん、こんばんは。ご無沙汰しております。

残念ながら私の家ではCTYを視聴していない為、番組を見ることはできませんでした。
なのでこの記事はとても参考になりました。

まきの木台の東端の道路がかつて三岐鉄道の所有地だった事は聞いた事があったので、ここが四日市への路線になるはずだったのであろうと想像はしていましたが、やはりそうだったのですね。
もし建設が実現していたらどうなっていたのか、想像するだけで楽しいですね。もしかするとまきの木台は存在してなかったりして(笑)。
2016年07月02日 21:17
INITIAL‐Sさん、こんばんは!

三岐鉄道の四日市方面への路線跡、いつ書こうかと思っていたのですが、丁度CTYで歴史話だったので、その機会に出してみました!

まきの木台は平成の初め頃に区画整理組合として団地となりましたが、その際にこの線路跡も道路として整備したようですね。

ホントに、この三岐鉄道の四日市ルートが実現していたら、まきの木台は無かったかもしれませんし、下海老あたりに駅が出来ていたのかもしれないですね!

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